文天周辺商工会 2014ver. BUNTENMALL 会員相互の連帯と「輪」をひろげていこう I will widen a solidarity and "the ring" of member aspect each other |
TOPへ | まなびやぶんてんTOPに戻る |
|
|
|||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
☆ナットナットーナット マルダーイ ナットー☆ これはナットー売りの人達が早朝にナットーを売り歩く声。少年もいました。大声が風に乗ってはるか遠くまで聞こえていました。 当時の納豆は出来たてで、ヘギに入っていて多くの長い糸を引き、大変うまかった。 ☆トッカーン☆ この音は天川原の農村部で聞かれました。とっかん豆ができあがったときの爆発音です。トウモロコシをトッカン豆のおじさんに差し出すと、機械に入れて爆発させて、ポップコーンみたいなお菓子ができあがります。 ☆リンリンリン☆ これはアイスキャンデー屋さんが自転車で木箱にアイスキャンデーを入れて売り回るときの鐘の音。キンメのアイスキャンデーが特にうまかった。「キャンデ屋サーン・・・が通る」と、いたずらっ子が声かけていました。 ☆パープー☆ 豆腐屋さんが自転車で売り回っているラッパの音。大きなお皿で豆腐を受け取りました。うどん屋さん、自転車に乗った魚屋さん、リヤカーをひいた八百屋さん、ノコギリの刃の研ぎ屋さんなどもご用聞きにきました。 ☆コケコッコー☆ 当時はニワトリは農家の庭を歩き回っていました。農家の子と遊ぶと帰りにその家のおばさんが、ごほうびに生みたてほかほかタマゴをくれたのでうれしかったよ。喧嘩(けんか)の弱いニワトリは羽根が抜けててかわいそうだった。いじめるニワトリとは別の小屋に入れられました。 当時の農家ではブタ、ウサギ、モルモット、ヤギ、アヒル、伝書バトなども飼っていました。ヤギの搾(しぼ)りたてミルクのうまかったこと忘れられません。 一般家庭でもイヌ、ネコ、ウサギを飼っていました。 ちなみに農家で餅つきして作った餅や、井戸水もうまかったよ。農家の子と遊ぶと、おやつに豆の入った小判形の餅や紙に盛ったお砂糖がもらえた。 ユスラゴや柿の実などを木からもいで食べました。 ☆ザワザワザワ☆ 農家の二階の蚕室(さんしつ)でオカイコが桑の葉を食べている音。森に雨が降っているような音でした。天川原や高田町(文京町一丁目)に養蚕農家が多かったよ。 ☆バッタン バッタン☆ 農家の主婦が機織(はたお)りしている音、手間がかかる仕事で、なかなかはかどりませんが見事な絹織物ができていきました。農家の主婦は働き者でした。現代の主婦もみならってほしいです。「うちのカカーは天下一の立派なカカーだ」が縮まって、かかー天下という言葉ができたようです。 ☆ブーン☆ これは羊毛商人がメンヨウの毛を刈る電気バリカンの音。当時は羊を飼う農家が多かった。見る見るうちに赤裸(はだか)になっていきます。 |
|||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
☆チンチン☆ 前橋駅北口から出発するチンチン電車と呼ばれた路面電車の音。国道50号を通って国道17号を通って渋川方面へ。 チンチン電車は市民の貴重な乗り物でした。 当時の前橋の交通事情ですが、信号機はなく、現在のホテルトーキューイン(当時は前橋商工会議所)の所の交差点ではおまわりさんが台に乗って笛吹いて交通整理していました。舗装道路は少なく、砂利道ではほこりがたたないように住民がオケで川の水を撒(ま)いていました。 |
![]() |
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
二子山の東から北に回り込む両毛線の汽車の吐く黒い煙がモクモクと流れ、汽笛は空に吠え叫びました。ピストンの動きと吐き出す蒸気がダイナミックでした。ジーゼルカーは一輌又は二輌連結でかなり速かったです。乗り物といえば、天川小学校児童の家庭で初めて乗用車を購入したのは昭和30年頃です。それより前に農家ではオート三輪が導入されていました。 農家では輸送手段としては主にリヤカーを引いていました。当時の自動車は方向指示機は馬のベロのような赤い細長い物体を出したりたたんだりしていました。 バスは今でいうボンネットバスがあたりまえで、単に「バス」と呼んでいました。今の型のバスのほうがめずらしく、これを「弁当バス」と呼んでいました。 走ってくるトラックを前から見てトン数を当てるゲームがはやり、県道前橋古河線を走るトラックは4トン車が多く、5トン以上のもありました。トラックの後ろに4000kgとか書いてありました。 飛行機については、旅客機が空高く飛ぶのが時々見られ、軽飛行機が空から宣伝ビラを撒(ま)き、これをひろおうとして子供達はあぜ道をはしりました。 自転車に原動機をつけたかっこうの原動機付自転車を持っている人はかなり裕福な人です。 医院は天小周辺にはほとんどなく、かなり遠くの方からお医者さんはスクーターに乗って往診にきました。 子供用自転車はほとんどなく、子供は大人用自転車で器用に三角乗りをしていました。 公田(くでん)地区では利根川に渡し船があり、こっちの土手から「オーイ船方さん」と大声で呼ぶと向こう岸からこっちへ船を着けてくれます。 利根川を横断して上空に張られたワイヤーに船を結びつけ、竿(さお)で川底を突いて船を進めます。 ☆ザラザラ☆ 土方(どかた)の人達が道普請(みちぶしん)するときに、砂利を道路に敷き均(なら)す音。道普請は前橋市の失業対策事業として盛んに行われていました。当時は舗装道路ではなく砂利道でしたから同じ路線でも定期的に仕事がありました。県道前橋・古河線や天川小学校西側の道も、時々道普請がありました。この道端(天川小学校の塀のわき)で昼食時に並んだドカベンがあまりにも大きいのには驚きました。 ☆ブーコラブーコラ☆ アコーデオンの音やハーモニカの音です。当時は戦争の傷跡(きずあと)が残っていました。 傷痍(しょうい)軍人の人達が前橋銀座通りで、カーキ色の服着てアコーデオン弾いていました。大道芸人がハーモニカ吹きながら剣舞を踊っていました。いずれも生活のためです。なお、当時の前橋銀座通りや前橋中央通り商店街は今とちがって昼間から大変なにぎわいでした。チンドン屋がチャンチキたたきながら行進し、サンドイッチマンもいました。銀座通りと中央通りの交差点にあった麻屋(今も古い建物残っている)が一番背が高い商店建物で、この屋上からはるか遠く天川小学校を見ることができました。キリン食堂や高崎ハムの食堂では、カツドンやビフテキなどのメニューがあり、大ジョッキでビールを飲む男性客が多かった。アカカンバンで前橋最初のエスカレーターが導入されました。スズランは小さな安売店でした。フレッセーは当時は松清といって前橋で最初に買い物かご方式による販売を行った店です。文真堂は当時はノラクロや鉄腕アトムなどの少年向き漫画の小さな貸本屋でした。 ☆ウーーーーン☆ これは、敗戦後、アメリカの進駐軍が駐留している駐屯地の中島飛行機製作所跡地で、お昼を告げる大サイレンの音です。 中島飛行機製作所は昔、日本の海軍機を作っていました。この近くの天川原町地内には真珠湾攻撃の特殊潜行艇に乗った指揮官の岩佐中佐の家がありました。中島飛行機製作所は現在はダイハツ前橋文京町(昔の天川原)工場となっています。 前橋は戦争で空襲(くうしゅう)をうけ、一般市民の民家や商店街が無差別攻撃されたそうです。二子山にも焼夷弾(しょういだん)が落ちて石碑にあたり、欠け落ちてしまったそうです(写真)。 軍需工場の中島飛行機製作所はなぜか米軍機に攻撃されなかったので、ここの中島飛行機の建物は無傷(むきず)で残っていました。 ここには敗戦後、天川小学校創立の頃まで毎日星条旗がたなびいていました。 駐屯地には、ノコギリ屋根が連なり、大きな煙突もありました。ここのジープが市内を行き交いました。門の出入りは鉄の鎖を上げ下げして厳重な検問がありました。タンク(戦車)の車列が回りの道を行進し、軍事力を誇示しました。 1台のタンクが天小西方の水田に転落しました。斜め道路北突き当たり付近の養魚池には装甲車のような大型車が落下しました。これらの車の引き揚げ作業に野次馬で黒山の人だかりができました。 昔、両毛線を建設した時の線路敷の盛土用の土を掘った跡が養魚池としてこのあたりに多くあったのです。 ここのアメリカ人は付近の農家からベッドに入れるワラを買ったり、付近の高校の英語授業で英語の発音のお手本を示すなどしました。 アメリカ人の男女がガムをかみながらこの辺を歩いているのに向かって、天小生は「アベックー」と呼びかけました。当時はカップルというしゃれた言葉はほとんど知られていませんでした。 そのころの新聞には吉田内閣総理大臣やマッカーサー元帥が葉巻タバコパイプをくわえた写真がよく載っていました。 ☆ワーオ☆ プロレスラー力道山を応援する、テレビ観衆のわめき声。当時テレビで最もフィーバーを起こしていたのは、力道山のプロレス。 力道山は、あやうい場面で空手チョップで外人プロレスラーをバッタバッタとなぎ倒しました。テレビは一般家庭にはなく、どこか遠くの公園みたいな場所へテレビをみんなで見にいきました。テレビで最初に見たのは力道山という人が多いです。 プロ野球では、そのころも巨人軍が人気でした。川上選手が活躍してました。 後に巨人軍(読売ジャイアンツ)の名投手およびピッチングコーチとして大活躍した宮田征典投手は、このころ天川原町にあった前橋高等学校グラウンド(現在の生涯学習センター)で前橋高等学校野球部員として剛速球を投げ込んおり、球のあまりの早さにバターボックスに立ったまま痙攣(けいれん)してしまったバッターもいました。その後、ここの前橋高等学校グラウンドでは、甲子園球場で初めてパーフェクトゲームを成し遂げることとなった松本投手が、県外の強豪校などと練習試合をして、大きく曲がり落ちるカーブで三振の山を築きました。このグラウンドからはファウルボールが外の田んぼに入ってしまい、部員が田んぼの中で玉探しをしていましたが、お百姓さん達はこごとの一つも言わず、高校野球に協力してくださいました。 第2話(天川小学校創立のころ) 天川小学校は戦後の復興期の昭和27年4月に、前橋市天川町(現在の文京町三丁目)に開校しました。私はこの時一年生でランドセルしょって入学しました。児童数729人、木の香ただよう木造瓦葺二階建校舎です。この校舎は1u当たり7,858円の建築費で建設されました。当時の木造平屋建住宅の建築単価とほぼ同程度です。学校用地として天川原町の農家が農地改革で取得して間もない貴重な農地を提供していただきました。この頃の、このあたりの住宅用農地売買価格は1u当たり900円程度でした。 通学区域内の家は主要地方道前橋・古河(館林)線の北の文京町一丁目、当時の高田町に多くありました。高田町は古くからの住宅地域であったため、現在でも両毛線と主要地方道前橋古河線との間にはほぼ当時のままの狭い街路網がかなり残っています。 この県道から南は農地が広がり、主として農家が散在し、昔の県立前橋高等学校(現在の群馬県立生涯学習センター)が見えるという状況でした。 天川小学校の初代校長先生は森島健二先生です。威厳(いげん)に富む、メガネのやさしい先生です。毎週月曜日の朝礼では、男女別に身長の低い順に並び、前へならえをして真っ直ぐに整列し、校長先生をはじめとして大事なお話がありました。思い出すと今でも頭の下がる思いです。 朝礼台の上に体育の先生が上がり、ラジオ体操第一又は第2をしました。 校歌はまだ制定されておりません。 男子生徒は黒い上下の学生服で金ボタン、黒い、つばの付いた学帽をかぶり、りりしい姿です。紺(こん)色のタビをはいたり、ゲタをはいたり、ズック靴をはいたりしていました。体育では白の長ズボン、白下着です。 農家の子が三分の一位いた感じですが、前橋南部の農村部の小学校とは違って学校の農繁休みはありません。 桑畑を開発して校庭は造成されましたので、開校後も桑の根っこ堀りと草むしりが大変でした。夏休み中の登校日には草むしりをさせられるので、うんざりでした。近所の農家等から植木が寄付されて校庭の回りに植えられました。 桑は火山灰土の前橋に適していたので、前橋は桑畑が多かったのです。 桑の実はドドメと呼ばれたように空っ風で農地の土が飛ばされるのを桑が止めていたのです。子供達はドドメを取って食べてくちびるを紫色にしていました。 校庭は、冬は空っ風で土がとばされ、校庭の南東方は遠くの方まで大きな砂ぼこりが舞い上がってひどかったです。今では砂ほこりは飛ばないようにしてあります。多分、真砂(マサ)と呼ばれる勢多郡東村産の花崗岩(かこうがん)の砕けた砂を校庭にしきつめているものと思います。 そのころの冬は最近の冬よりも寒く、川に厚い氷がはり、天川原の生徒は川底に降りて氷の上を歩いて通学しました。風邪をひいて、首にネギを巻いている女の子の姿も見られました。 先生が教室に入ってこられると学級委員長の私は、起立・礼・着席の号令をかけました。 先生方は情熱的に教えてくださいました。生徒は勉強も遊びも元気でした。 教科は算数、国語、理科、社会、音楽、図工、習字、体育、家庭科があり、児童会があったような気がします。 机も椅子も足の部分も含めてすべて木造です。教室の床も廊下も木造板貼りです。掃除当番の生徒は雑巾がけや重い机の移動で苦労しました。 黒板は文字通り黒い色。白いチョークで書きました。校内での印刷物は謄写版を使って書きました。 始業、終業の合図は用務員さんがチャリーン・チャリーンと鐘を振って廊下を歩きました。 プール掃除はみんなでブラシでこすって大変でした。 用務員さんは海軍出身だけあってプールで水しぶきの目立たない軍用泳法のうまい泳ぎを見せてくれました。 昭和27年12月、お隣の群馬県立前橋高等学校大火災の時、私は真夜中に大きな火の海を間近に見て怖い思いをしました。大声を出して村人を呼びました。火の粉は両毛線まで飛んでいきました。前橋高等学校が火事で焼けた後、天小は協力しました。昭和28年に天川小学校校庭に前橋高等学校の仮設校舎を建てて、前高生と一緒の生活をした時期がありました。小学生とはあまりにも差が大きすぎる高校生を迎えて、天小の校長先生は学校管理が大変だったようです。 第3話(学生時代) 開校してまもなく、天川小では模型飛行機を作成して飛ばすことがはやりました。模型飛行機作成指導のうまい先生がいらっしゃって、ロウソクの火であぶって骨組みを曲げ、セメダインで接着してから紙を貼り、霧吹きで紙を延ばし、巻いたゴムがほぐれる力でプロペラを回して飛ばしました。模型飛行機大会は天小グランドで行われ、天小は優勝しました。この大会では、大人は南南東方の空に向けて大きなグライダーを飛ばしました。玉村方向に飛んで行って見えなくなりました。当時は農地が広がっていて心配なかったんですが、今なら人家や車や人にグライダーが落ちたら大変です。 模型飛行機大会ではエンジン機を見るのが楽しみでした。ワイヤーの先に結んだエンジン付飛行機がけたたましい爆音たてて円を描いて上空を飛び回り続けます。オイルの焼けたにおいも刺激的でした。 遠足・旅行では敷島公園や、総社の二子山、十二山、種畜場(今の畜産試験場)、桐生の織物工場や太田、水上湯桧曽とかへ行きました。 6年生では江ノ島鎌倉旅行です。旅館にテレビがあったのでめずらしがってみんなで見ました。その日にテレビでやっていたのは栃錦や昔の若ノ花の大相撲や、島倉千代子が出る歌番組でした。 運動会では、六年生男子が箱根八里(箱根の山は天下の剣)を勇ましく歌いながらトラックを一周してからタンプリング(組立体操)に入りました。昔は鼓笛隊や女子のタンプリングはありませんでしたが、玉入れで勝って喜ぶ姿は今も昔も同じです。 徒歩競争で一位になると、賞状と9円のノート一冊がもらえました。 学芸会は、森の小人 のかわいいダンスや、ネコとネズミ、裸の王様等の劇がありました。 社会見学は、県庁、市役所、群馬銀行、関東製酪等でした。 理科の実験ではサツマイモでデンプンを作りました。 図工では二子山や、ダルマ市等を描き、選抜された生徒は写生大会で前橋公園・利根川や完成直後の黄色い群馬大橋方面まで描きに行きました。粘土細工、糸電話、望遠鏡なども作りました。 ガリオアエロアにより給食が始まりました。給食の主食はコッペパンです。おかずは天小の給食室で給食のおばさん達が調理してくれました。脱脂粉乳が出ました。まずい飲み物で、アメリカでは家畜の餌の残りです。給食当番の生徒は脱脂粉乳の入ったバケツを給食室から運ぶのが重くてこぼれそうでした。 同級生が脱脂粉乳を石灰の替わりに校庭のライン引きに撒(ま)いてしまって先生におこられました。 先生は教壇で給食を残らず食べました。給食はシンチュウのような金属製の食器が使われました。 給食のパンは前橋市立中川小学校の近くにあったイシイパンの工場で作られて車で当日給食室に運ばれました。パンの真ん中にジャムまたはバターがうっすらと塗ってありました。学校を休む生徒が出ると、その子の家の近くの生徒が給食のコッペパンを休んだ子の家に帰りに届けました。そんなわけで、かわいい女の子が風邪引くと近くの家の男の子はそわそわしてました。 給食のパンの小麦も脱脂粉乳も原料はアメリカのものです。このような学校給食がアメリカの農業を助け、日本の食料自給率を引き下げるきっかけとなりました。米も麦も天川小学校周辺農地に大量に作られ、牛乳は近くの関東製酪で作っていましたが学校給食には使われませんでした。 子供信用金庫が校内ではじまり、児童は出納係などを担当し、慣れないハンコを押しました。 先生の家庭訪問、火災避難訓練、歯磨き講習会、ツベルクリン注射等が行われていました。 夏休みには学校から宿題が出されていました。夏休みの宿題で絵日記をつけることは、毎日を有意義にすごす習慣を身につけ、表現力を身につけるのに役立ち、算数の宿題は計算力を身につけました。 夏休みにはラジオ体操もあり、よその家の庭へ集まって楽しい思い出になっています。 天小生の文集「麦笛」が発刊されました。 ソロバン塾でソロバンを習うのがはやっていました。 学習塾に通う子は小数ですがいました。 第4話(遊び) 天川小学校が開校した頃の校内での生徒の遊びは、S開戦、相撲、ドッヂボール、ソフトボール、野球、鉄棒、縄跳び、じんとり、まりつき、かくれんぼ、出せ出せ、あやとり、編み物、お手玉、おはじき、タガ回し、鬼ごっこ、グリコチョコレートパイナップル、ぬり絵、写し絵、折り紙、ダルマサンが転んだ、おしくらまんじゅう、めんこ、ビーダマ、ヨーヨー、にらめっこ、フラフープ、水切り(二丁切り)、汽車見物、おなべふ(指あそびによる性格うらない)等です。かくれんぼで、授業が始まっても隠れ続け、階段下倉庫の暖房用炭俵の陰に隠れていたのを校長先生に見つかってしかられ、校長室に正座させられた生徒もいました。 放課後は外で魚とり、エビガニとり、木登り、紙芝居見物、笹舟流し、正月は凧(タコ)揚げ、こままわし、竹馬、双六、カルタ、羽根つき、トランプ、雪合戦などをして遊びました。竹馬の竹は当時の天川原の農家の庭のタケヤブで切った本物の竹を使い、親が手作りで作ってくれたものです。タビまたは素足のまま、竹を指で挟み、普通は農家の縁側から庭に乗り出します。本物の竹だからいい音がしました。風情がありました。竹馬片足で片方の竹は肩にかついで曲芸する子もいました。 鉄棒は私は体操クラブにも入っていて、5年生で蹴(け)上がりや時計ができました。6年生で大車輪ができる子もいました。 |
|||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
|
|||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
夏、二子山での子供会では紙芝居のおじさんが何人もきて一斉に紙芝居を見たり、「静かな湖畔の森のかげから ご機嫌いかがとカッコーが鳴く カッコー×5」という歌を輪唱しました。 漫画は鉄腕アトム(手塚治虫)、鉄人28号(横山光輝)、イガグリ君(柔道漫画 福井英一)、(馬場のぼる 後に群馬ちゃんのマスコット制作)などが人気でした。少年雑誌にゴジラが登場し、子供達に衝撃をあたえました。 |
|||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
|
|||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
第5話(生き物) 二子山の頂上から南を見るとほぼ現在の前橋工科大学まで農地がひろがっていました。 天川原から佐鳥方面にむかって流れる川の側面にエビガニが巣穴を掘っていて、そこに手を突っ込むと、指をはさまれながらもザリガニをとらえることができました。天川小周辺でとれた魚は、ドジョウ、フナ、メダカ、ナマズ、ウナギ等です。そのほか水辺では、カッパ、イモリ、ミズスマシ、ゲンゴロウ、ヤゴ、ヒル、アメンボウ、ヘビ、アオガエル、トノサマガエル、ガマ、オタマジャクシ、カラスガイ、ボウフラ、ドブネズミ等がいました。ヘビの卵は白くて水田の中に何個もぬるぬるしたものに包まれていました。トンボは何回も水面にお尻を突いてタマゴを産み付けていました。 斜め道路(鯉池から今の生涯学習センターに突き当たる斜めの道があった)周辺の川ではホタルが乱舞していて、うちわでホタルがりをしました。天川町の二子山には、モンシロチョウ、モンキチョウ、アゲハ、キアゲハ、クロアゲハ、アオスジアゲハ、ミヤマカラスアゲハ、各種のシジミ、セセリ、キベリタテハ、アカタテハ、ヒョウモン、ルリタテハ、ジャノメ、ヒカゲチョウ、ヒオドシ、ゴマダラ、イチモンジ、コミスジ、コムラサキ等の蝶類のほか、たまに国蝶の美しいオオムラサキ(写真)が樹液を吸いにくるのが見られることもありました。この樹液の出る木(クヌギ?)には昆虫が多く集まり今でも二子山の後円墳の南東斜面にあります。八幡山まで昆虫採集に行くには、背丈よりずっと高い桑畑が続き、追い剥(は)ぎに会うのではないかと怖かったです。 天小校庭の樹木にはコムラサキがたくさん飛んでいました。 アブラゼミ、オーシン、トンボ、カナブン、カブトムシ、クワガタ、カミキリムシ、イナゴ、バッタ、カマキリ、コオロギ、ウマオイ、デンデンムシ(特大のと小さいの)、ナメクジ(塩をかけると溶ける)、トカゲ、アブ、ハチ、クマンバチ、ミツバチ(刺されると非常に痛い。ハクチョウゲの花が好物)、テントウムシ、クモ、アリ、シャクトリムシ、タマムシ(つつくと丸くなる、あいまいな色をしている)、ムカデ、ヤスデ、ゲジゲジ、ハサミムシ、イモムシ、毛虫、アリジゴク、蚊、ハエ、ノミ等も見られました。 トカゲはシッポ切りをしてシッポだけが飛び跳ねて人をおどかしているすきに逃げていきます。イナゴは焼いて食用にしました。 犬は放し飼いで自由に遊び回り、夜、家の天井裏はネズミの運動場になって、ネズミがけたたましい音を立てて走り回っています。 ネコはほこらしげにネズミをくわえてきます。畑ではモグラ、オケラ、ミミズ等がいました。モグラのはったあとが畑に見られました。 オケラは指でつかむと、かわいい顔して両手広げます。誰々ちゃんのデベソどんなでっかい?とオケラに聞くと、オケラは両手を大げさに広げて教えてくれるしぐさをするので大笑いしました。 天川小学校の渡り廊下の電灯付近の天井には、夏の夜には大きな蛾(ガ)のヤママユがはりついていました。 夏休みの児童の作品展では、毒蛾の展示が人気をあつめました。 田んぼにはイナゴやタニシが多く、食用にすることもありました。蜂の巣をとって蜂の幼虫を食べる子もいました。 スズメの子には、生け垣の根元にあるクモの巣からクモを採ってエサとして与えました。 昼間は大木の間をムクドリの群が移動し、夕方はコウモリの大群が乱れ飛んでいました。田んぼではシラサギが羽ばたき、空ではトンビ、オナガ、スズメ、カラスが飛び、ヒバリは天高くさえずっていました。モズはカエルやトカゲを後日食べようと思って生け垣の枝に刺したまま、忘れてひからびてしまった、モズのはやにえが時々見られました。 野草(雑草)ではレンゲ、スミレ、クロバー(花を編んで花輪を作った)、ツクシ、タンポポ、シバ、アカマンマ、ススキ、セリ、ヨモギ(モチグサ)、エノコログサ(ネコジャラシ)、メヒシバ、オヒシバ、カモジグサ、イヌムギ、カラスムギ、ハルシオン、タビラコ、ミヤマヨメナ、カラスノエンドウ、スズメノテッポウ、ツユクサ、スズメノカタビラ、アキメヒシバ、ギシギシ、ナズナ(ペンペングサ)、カヤツリグサ、ハルジオン(ビンボウグサ)、チドメグサ、ハコベ(ウサギの好物です)、ブタクサ、ハハコグサ、ヘビイチゴ、ヤブガラシ(チョウの好物です)、アカザ、オオバコ(ガイロッパ)、オオイヌノフグリ、ホトケノザ、カタバミ、アカザ、ヘクソカズラ、ジュズ等が見られ、夏の水田や小川には小さな葉のウキクサがたくさんただよい、清流の川底には長い藻(モ)が生えて揺れていました。 春は、あぜ道ではセリやモチグサを摘む人達の姿が見られ、菜の花畑の中では若い女性がプロの写真屋さんに来てもらって写真撮ってもらってました。 このように当時の天川小学校周辺は豊かな自然に恵まれていましたが、今は残念ながらその多くが失われてしまっています。 第6話(天川小学校音楽史) 天川小学校地区内の音楽の起源は、天川原町の八幡神社にさかのぼることができます。八幡様の舞台では村祭りで大人も子供も上がって八木節とか歌や踊りがあり、花笠がパット開き、笛太鼓やレコード音楽の赤城の子守歌等が鳴り響きました。 天川小学校では一年生に入学すると、オルガンの伴奏で唱歌を歌いました。 「メダカの学校」を歌いましたが、この作曲家の中田喜直先生が後に天川小学校校歌を作曲されることになるとは夢にも想いませんでした。 童謡歌手の、古賀さと子、松島トモ子、小鳩くるみ などが人気でした。 歌手に来ていただいて歌曲の「まちぼうけ」などを聴きました。 修学旅行バスの中でみんなで歌った歌はラジオ主題歌の「赤胴鈴之助」「少年探偵団」「笛吹童子」などです。 群馬交響楽団の移動音楽教室を聴きました。「カッコーワルツ」などの小学生にわかりやすい音楽を聴かせてくれたうえ、楽器の紹介もしてくれました。 校舎の中央部二階に位置する音楽室の壁には、バッハ、ヘンデル、グルック、ハイドン、モーツアルト、ベートーベン、ウェーバー、シューベルト、メンデルスゾーン、ショパン、ワグナー、ヨハンシュトラウス、ブラームス、の順に天才作曲家の大きな肖像画がならんでいました。 天小では楽器の導入は先進的でした。天小が音楽実験校に指定されて文部省から派遣(はけん)された偉い先生のご指導の影響もあって、雑編成音楽が当たり前の時代に天小は思い切って本格的なリード合奏、他校に真似のできない演奏を導入したのです。このへんのことは、みやま文庫の「群馬県音楽のあゆみ」という本に載っています。カスタネット(今の二枚貝のようなタイプのと、片手で振るタイプ)、トライアングル、大太鼓、小太鼓、シンバル、タンバリン、ハーモニカ、ソプラノシングル、アルトシングル、ソプラノホルン、リコーダー、木琴、鉄琴、マリンバ、アコーデオン、オルガン、ピアノ、バイオリン、コントラバス、テインパニーなどが使われましたが、金管楽器や木管楽器は学校にありませんでした。バイオリンを持っている生徒は一人だけいました。合成樹脂製の横笛は、吹いても音が出なかったので普及しませんでした。 このころの大きな出来事は、なんといっても天川小学校が文部省の初等教育音楽実験校・器楽の部に選ばれて、文部省と地元主催で昭和32年5月31日に音楽の全国発表を行ったことです。 楽器演奏実技テストにより選抜された生徒からなる音楽クラブです。指揮者は尾林文先生、水野文一先生です。 全国発表に備えて魂(タマシー)を重視したきめ細かい厳しい練習が放課後続きました。「ドイツは二度の戦争に続けて負け、ドイツの子供は鉛筆が短くなっても工夫して使っている。日本の生徒はドイツの子より恵まれている。がんばれ。」と先生から気合いを入れられたのを覚えています。 また、他の楽団が演奏中に観覧席に出入りしてはいけないと厳しくしつけられました。 コントラバスはでかいので天小でもっとも背の高い女の子が選ばれました。私はソプラノホルンと呼ばれる円筒形の特大ハーモニカを吹きました。 この楽器は息を吸って音を出すのでなく、吹くことの連続で音を出すので小学生の体力ではやや厳しい面がありました。 当時は文部相の方針の影響か、異動ド唱法だったので、ハ長調以外は演奏の仕方がやたらと難しく感じてしまいました。 私達はLPレコードを聴いたり、リンゴ箱みたいにでかいソニーのテープレコーダーに演奏を録音して聴いて研究しました。 アコーデオンは合奏に合わせずらいようで、アコーデオンの子達はみんなの中で何回もやり直しをさせられてかわいそうなくらいでした。 東京から有名な指揮者がお弟子さんを伴って、指導にこられました。同じ曲について結局合計四人の先生方が指揮されましたが、指揮者がちがうと音楽表現が微妙にちがうなあと私達は感じていました。音楽教育視察の先生方も時々お見えになって生徒は緊張していました。 当時、隣にあった県立前橋高等学校の講堂を借りて天小は全国発表の演奏をしたのです。この講堂は前橋市下沖町の現在の前橋高等学校の庭の西側に移転されて現在も残っています。演奏曲目は迫力に富む「ハイドン作曲 交響曲第100番第二楽章」と、「双頭の鷲(ワシ)の旗のもとに」です。文部省、県下の音楽関係者、全国の小学校音楽指導者約千人が集まりました。 白いタクトに導かれてアコーデオンはピタリと決まり、ファンファーレは高らかに鳴り響き、テインパニーは地響きのように興奮を高め、フィナーレを迎えました。 満員の会場からは生まれて初めて聞く、われるような大きな拍手がわき上がり、なかなか鳴りやみませんでした。 これは天川小学校と私達の大きなほこりです。 この様子はその日の夜7時からのNHKラジオの第一放送のニュースの中で放送されました。演奏がタップリと放送され、尾林先生の講演の一部も放送されました。 当時は家庭にテレビはない時代です。ゴールデンアワーのゴールデン番組で天川小学校の名前と音楽を日本全国にとどろかせたのです。新聞にもとりあげられました。更にこの日天川小学校では、楽器の構成はどうしたらよいか、歌唱と器楽の関連性など五項目について熱心に討議が行われました。 更に昭和32年11月15日には天川小学校で音楽研究発表が行われ、当時の新聞によると、リズムの指導、旋律楽器指導、創作指導、読譜指導、歌唱指導、鑑賞指導について実地指導を公開しました。 一般的には音楽発表会は群馬会館(県庁の東隣のレンガの建物)で行われていましたが、天小の演奏は他の小中学校に比べ、規模においても、楽器の装備においても、音楽性においても傑出(けっしゅつ)していると私達は自負していました。ドナウ川のさざ波や、アンニーローリのような優雅な曲や、クシコスポスト、錨(いかり)をあげて等の曲もレパートリーに入っていました。他の小学校にバスででかけて交流し天小音楽を発表することもありました。 私は小学生のころは音楽をやっていて、なかなかむずかしいと思う面もありました。そのころの音楽の良さや先生方のご恩が本当にわかるのは大人になってからだと思います。あの時のあのシンフォニーが今も私の心の中で高鳴り、私をはげまし、動かす原動力になっています。 天川小学校の音楽の伝統は、その後も脈々と受継がれ、校歌を歌って自立の気風を養い、豊富な楽器を完備し、すばらしい音楽に接し、天小は数々の音楽コンクールに輝かしい成績をおさめ、迫力あふれて見応えのある立派なマーチングバンドは運動会や前橋祭りで大聴衆から拍手喝采(かっさい)をあび、小学生としては卓越(たくえつ)したジャズバンド等を有し、音楽集会や、おやふれ(親子ふれあいコンサート)の開催や、トランペット演奏会、天川小学校50周年記念歌「はばたけそらへ」を発表するなど、ますます発展してきており、今の天小生は音楽教育に恵まれうらやましく頼もしい限りです。 『前橋市と天川小学校の昔話』は、荻原松雄さんのウェブページより転載させていただいております。この場を借りてお礼申し上げます。 荻原不動産鑑定事務所:http://www17.ocn.ne.jp/~ogiwara/ |