軍神 岩佐直治 海軍中佐

略 歴
大正 |
4年 |
5月 |
6日 |
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群馬県前橋市天川原出身 |
昭和 |
2年 |
3月 |
30日 |
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前橋市立城南尋常小学校卒業 |
昭和 |
5年 |
3月 |
30日 |
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群馬県立前橋中学校卒業 |
昭和 |
13年 |
3月 |
16日 |
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海軍兵学校卒業(65期) |
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軍艦「磐手(いわて)」乗り組み |
昭和 |
13年 |
6月 |
19日 |
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軍艦「熊野(くまの)」乗り組み |
昭和 |
13年 |
12月 |
1日 |
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軍艦「鵙(もず)」乗り組み |
昭和 |
14年 |
11月 |
20日 |
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軍艦「比叡(ひえい)」乗り組み |
昭和 |
15年 |
5月 |
3日 |
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軍艦「鹿島(かしま)」乗り組み |
昭和 |
15年 |
11月 |
15日 |
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特殊潜航艇搭乗員として「千代田(ちよだ)」乗り組み |
昭和 |
16年 |
1月 |
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特殊潜航艇の投下訓練を倉橋島、三机湾で開始 |
昭和 |
16年 |
4月 |
15日 |
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特別攻撃隊発令 |
昭和 |
16年 |
11月 |
18日 |
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特別攻撃隊(伊22潜)として倉橋島から出撃 |
昭和 |
16年 |
12月 |
8日 |
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ハワイ真珠湾にて享年26才で戦没 |
昭和16年12月7日 伊22潜 岩佐大尉の挨拶
本艦に来艦してから約1ヶ月。呉を出港してから三週間。一同の勢なる協力と絶大なる努力に依りまして只今 真珠湾港外20浬(かいり)の地点に達することができました此の上は天佑と神助に依りまして目的の貫徹を期し私の歳後の任務達成に向けて出発いたします。終わりに臨み 伊22号の武運長久を祈ります。さようなら。 |
昭和16年12月7日 真珠湾
午前8時35分、米応急出動艦「モナハン」は真珠湾を航行中に水上機母艦「カーチス」の敵潜水艦発見の信号を認知した。「モナハン」は全速力で航行し特殊潜航艇に激突し、その上を乗り越えた更に爆雷攻撃を加え、その全部を吹き飛ばした。この特殊潜航艇はその後泥の中から引き上げられ、搭乗員二名の遺体が発見された。海軍は葬送の儀式を行った後、二名の遺体と潜水艇を武勇をたたえ 建設中の潜水艦基地の基礎に葬った。 |
遺 品

昭和23年3月。
米海軍は特殊潜航艇の遺品として泥にまみれた海軍大尉の一種軍装の袖章を日本へ返還した。特別攻撃隊の隊員で大尉は岩佐大尉しかいなかった。この袖章は遺族に返還され、その後靖国神社に奉納された |
曹洞宗 松竹院

前橋市本町三丁目17番12号
墓 所

松竹院本堂前の墓所
尋六 岩佐直治 歌碑

今はきし 庭に一枚 木の葉かな
(揮毫は尋六担任斎藤竹次郎先生)
直筆 答辞碑

答 辞
私ドモ六年生ハ 草ノ芽ノマサニモエデントスル今日 本校第五回目ノ卒業生トシテ 元気ヨク 一歩上ノ世ノ中ヘ出デタツノデアリマス
思ヘバ スベテシタシイナツカシイコトバカリ 一年生ノトキ 一字一句オボツカナイ口ツキデナラツタノガ 今ハ カクニ如キ者トナルコトガデキマシタ
之ノ長イ六年ノ間 オ世話ニナツタ先生ガタ
其他 五年生以下ノ友達ノコトヲドウシtワセレマセウ
アノ時此ノ時ノコト、色々頭ノ中ニヒラメイテ何トモ言エナイ心モチニナリマス
私達ハ 校長先生ノ訓辞ヲ身ニシメテ卒業イタシマス
ソシテ 一人前ノ人間ニナル覚悟デゴザイマス
サラバ 先生方 多クノオ友達 母校ヨ
昭和二年三月三十日
第五回卒業生総代 岩佐直治 |
直筆 遺書碑

遺書を原寸で刻んだ遺書碑

平成16年秋彼岸に 文字を拡大して建立された遺書碑
直筆遺書の一部

岩佐中佐遺書
昭和の鴻業(こうぎょう)未だ半ばにして 前途益々多端 今一歩を誤らんか 三千年の光輝ある厂史は一朝にして破摧(はき)され 延びゆく大和民族の壮圖(そうと)は中道に挫折す 此(今年)の秋 此の世に生を承(う)け この難関突破の使命を負ふを得たる まして 軍人として國民の第一線に立ち 大和厂史の擁護者として 現下の時局に對処し得たる 此(これ) 直治最大の榮譽なり ましてや選ばれて 單身敵港湾に突入以て 直撃一挙に敵意図を打破し大和正義を認識せしめ 民族の福祉と世界平和招来の大任を帯ぶるにおいておや 今 勇躍壮図(そうと)に就くに際し 思いを述ぶれば 皇國(みくに)の安危(あんき)比岐(ささぐ)るる時 命(めい)を承(う)け此の大任に就く 武人の本懐これに過ぐる無し 御稜威(ごみいず)の下(もと)必ずや 大任を果たし得るを確信するものなり 然れども又此の業 容易のものに非ず 再會を期し難し 願はくは此の世に生を承けてより二十有七星霜(せいそう)暑きにつけ寒きにつけ 御心の程をなやまし 子としての務まだ務めざりし 御許し被下度(くだされたく) 此行果し得ば 後果つるとも御讃(おなぐさ)め被下度 又行半ばにして果つるとも 直治の魂の赴く所を得さしめられ度(たく)
櫻花(さくらばな)散るべき時に 散りてこそ 大和の花と賞(めぜ)らるるらん
身はたとえ異境の海に はつるとも 護らでやまじ 大和皇國(みくに)を
直治(なおじ)
父上
様
母上
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特別攻撃隊歌碑

特別攻撃隊
. 讀賣新聞社 選詩
. 東京音楽学校
作曲
一、. |
撃ちてしやまむ ましらおに |
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四、. |
襲撃まさに成功と |
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なんの機雷ぞ 防潜網 |
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月の出潮に 打つ無線 |
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あゝこの八日 待ちわびて |
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おゝその無電 打ち終へて |
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鍛えぬきたる 晴れの技 |
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遂に還らず 艇五隻
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示すは今ぞ 真珠湾 |
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還らず遂に 九勇士 |
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ニ、 |
神なり すでに九つの |
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五、 |
一億あふげ 盡忠(じんちゅう)の |
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生死越えたる 荒御魂(あらみたま) |
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天地つらぬく その誠 |
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いざ皇国の興廃と |
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げに大東亞 聖戦の |
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史上例なき肉弾に |
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基かためし 軍神 |
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必殺ちかう 海の底 |
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燦たり 特別攻撃隊 |
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三、 |
撃沈撃破 ときの間に |
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居る戦艦巡洋艦 |
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みよ 友軍の爆撃に |
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あがる火柱水柱 |
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天誅くだる 米主力 |
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昭和十七年四月十一日 文部省検定済
平成十二年十二月八日 岩佐直衛建之
軍神岩佐中佐歌碑

軍神岩佐中佐
. 讀賣新聞社 選詩
. 東京音楽学校
作曲
一、 |
仰ぐ赤城の 山は映え |
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四、 |
見よや 類なき大戦果 |
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大利根めぐる 厩城下(きゅうじょうか) |
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輝く 特別攻撃隊 |
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ここに建武の 血をうけて |
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率いて散りし 武士の華 |
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郷土群馬に 男子あり |
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軍神 岩佐中佐こそ |
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性は岩佐ぞ 名は直治 |
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その名燦たり とこしえに |
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二、 |
君のみために 死する時 |
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孝を遂げしと 思召せ |
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かをる勲の 絶筆を |
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手にせる 父はほほゑみて |
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あゝ軍神の 母泣かず |
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三、 |
敵がたのみの 真珠湾 |
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防塞くぐる 新兵器 |
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断乎撃滅 大和魂(やまとだましい) |
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血の訓練の甲斐ありて |
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「われ襲撃に成功す」 |
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昭和十七年四月十一日 文部省検定済
昭和五十八年十二月八日 岩佐直衛建之
ご遺族談話
岩佐直治海軍大尉は 昭和16年秋 前橋に帰省されましたが、普段と変わった様子は全くなかったそうです。ご両親は後になって岩佐直治海軍大尉が
最後のお別れにこられたと 知ったそうです。昭和16年12月 岩佐直治海軍大尉から荷物が送られてきたそうです。この荷物を開いたのは 真珠湾特攻の後で身の回りの物と遺書があったそうです。
直後 海軍から軍人が来て荷物を調べ、書籍文書は全て 庭先で焼却したそうです。ご遺影はかなり痩せておられ その後の訓練の激しが窺がえ、ご両親は涙を流されたそうです。松竹院の墓所は 60年余を経た今も 墓参に見える方が多く、毎年12月8日には ご遺族によって盛大な法要が営まれています。
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編集後記
このホームページは 岩佐家ご本家のご了解をいただき
前橋市松竹院の墓所資料を中心に編集しました
編集に当たり 岩佐ご本家 並びに 愛国顕彰ホームページから資料を受けました .
軍神岩佐中佐のご冥福を祈り 結びます
編集責任者 水野泰治 |
最終更新日 2010/01/12